変形した人体

変形した人体を見てイメージするものは見る人の経験によって異なってくるだろう。フランシス・ベーコンの描く、もはや人間ともわからないようなゆがんだ肉体は第二次大戦の惨禍で傷ついた欧州人の自己イメージなのかもしれない。平等だ友愛だなどと響きのよいことを言ったところで現実にはむき出しの欲望と残虐さが対峙したのだから。ベーコンの絵を眺めるとき人は「気持ちの悪いものを見ている」という意識だけでなく、「これは自分の中の気持ち悪いものを見透かされた像かもしれない」という恐れを覚える。歴史的にユダヤ人を差別してきた人たちも強制収容書で亡くなったやせ衰えた人体がモノのように積み上げられた光景には「自分たちの差別意識の行き着く先はこれだ」という恐れを抱く。それが怖いからことさら「ナチスが悪い」と言いたくなるのかもしれない。強制収容書の管理運用にあずかった者たちは人間性に対する罪を犯しているという意識を「組織のなかで命じられた業務を忠実にこなしているだけで、神に対峙するような高次の倫理的責任は組織の上位の者にある」という意識で覆い隠したのだろう。AIで「気持ちの悪い動きを研究する」「ゾンビの動きに使えるんじゃないか」という感覚は「この気持ちの悪さはある意味俺らのようでもある」という振り返りが足りない気がする。「障碍者を笑いものにするのか?」という批判よりは「自分らのなかの障碍者的ものに気づかないのか?」が当たっているような気がするのだ。