危機対策の無駄を許容できるか?

京都の病院でノロウイルスの集団感染があって83歳から91歳の高齢者が肺炎などで亡くなられたと報道。ノロの吐き下しは気持ちが悪いしできれば集団感染はないに越したことはない。しかしこれを厳格にやろうとすると入院が必要な人でノロが出た人は個室管理にするなんてことになってベッドのやりくりに困る。めんどうを避けようとするとノロウイルスの出そうな人はていよくお断りになってしまう。地域の機関病院で他に回せないようなところだとベッドに余裕を持っておくことが必要になる。そうすると普段は稼働率が低下する。注意していても起こってしまうのがこのような感染だ。マスコミでも注意していても変な編集とか歪曲した報道とかしてしまう。その結果起こることについては想定しているのだろうか?例えばノロに感染しても症状がでないでウイルスだけ排出されている人がいる。PCRで増幅してみれば4週5週と出続ける人もいる。完全にウイルスゼロにならないと職場復帰ダメとすると仕事が回らなくなる。厳密に管理しようとすれば復帰できない人手を見込んで余分の人材を準備しておけということになる。厳密な安全管理と経済性は必ずしも両立しないのだ。危機対策の一見無駄なコストを許容できるかどうかが安全性の分かれ目だ。例えばHIF1は普段酸素のある状態では作るそばから壊されている。しかしその無駄が許容されているから低酸素になると直ちに反応できるのだ。