現代の修道院

世の中には表向きの意義と実際の存在意義がずれているものがよくある。十字軍は聖地回復という大義名分のウラで人口増からくる欧州の海外拡張運動ともいえるし、テンプル騎士団など土地のない貴族の次男三男が就職する会社のようなものでもあった。女子修道会も身分に見合う嫁ぎ先がない貴族の女性を品良く収容しておくための施設のようなものでもあった。こうして中世でも多少とも人間の品位を重んじられる人口については一種の失業対策がなされていた。
現代でも現実に存在する仕事の需要とは合わないが、能力はある、という人口は多数存在する。残念ながらこれを遊ばせているというのが実態だ。米国では一部の暴発した人を刑務所に収容することで社会の安定を保っている。日本では個々の人がおとなしいのでいやになった人は静に(この世から)退場する。そこで、中世の修道院のように「道」の探求に献身するかわり、金はあまり儲からなくてもいい、という人は大学院に収容すればどうだろう?現在の大学院は卒業して就職するのが前提なのでオーバードクターの問題が出てくる。卒業してもアカデミックな職のない博士がいつの間にか行方不明になっていたりする。そうではなくて、一生大学院生でいい、そのかわり学費も払わなくていい、生活できるだけの最低の賃金でもいい、という仕組みをOKにする。そうすると、周りの人の意識も変えるために大学院じゃなくて「修道院」にしたほうがいいかもしれない。もうすでに自分の能力が現実の仕事と合わなくなっているのだが学びなおす暇もなく、金のために現在の職にしがみついているしかない、という一種の悲劇は避けられるかも。