I have sinned

ダーウィニズムエコロジー

「ペッカヴィ」というのはラテン語で「私は罪を犯した」という意味だが、英語に訳すと”I have sinned."音だけ聞くと「私はシンドを得た」とも聞こえる。インドのシンド地方を征服した英国の将軍の報告が前記の「ペッカヴィ」だというのだが、「軍事力に優れている自分たちが、古い文明を持ち独自の哲学・宗教を抱いてきたインドを征服し、支配することはキリスト教的に傲慢あるいは貪欲の罪を犯していることではないのか?」というどこか後ろめたい不安を一部に感じさせる。

Wikipediaからの引用(In 1843, British forces led by General Charles Napier conquered the province of Sindh in India. On his conquest he was supposed to have sent a one word message in Latin to his commander, Peccavi, meaning "I have sinned" ("I have Sindh"), making it not only a laconic phrase, but also a bilingual pun. In fact this message was suggested by Punch at the time, since Napier had been acting against orders.)

問題はこの時期キリスト教の権威は薄まり本当の意味での精神的よりどころがなかったということ。そのため一面では歴史の研究がありローマ帝国の通史が研究されたり、一面では科学の研究を通じた自然の摂理のなかに造物主の意思を探ろうとする意志が生まれた。そのなかで「環境に適応して”優れた”ものが生き残り、不適応の生物と置き換わっていく」というのが自然の摂理だとすると前記のインド方面司令官の不安は解消され優れた文明はどんどん時代遅れの他文明を征服すればよいということになる。これがダーウィニズムが英国にとって重要だった理由だ。経営資源をうまく使いこなしていない経営者は退出し、合理的な経営を行うものに置き換わるべきだというのがダーウィニズムを自分に都合よく解釈したネオリベラリズム的思考様式だろう。しかし自然の実態はある一面からの合理性から見て”優れた”というのが必ずしも環境への適応と一致しないこと。ある一時期の環境に適応しすぎると環境の変化にあっさりと吹き飛ばされてしまう。「なぜこんな無駄な、あるいは有害なものが残っているのか?」というものが厳しい環境の変化に対応して生き残るための強さ(ロバストネス)の秘訣だったりする。例えば鎌状赤血球貧血はマラリアの致死率を下げる遺伝子変異だし、膵嚢胞性繊維症はユダヤのゲットーで結核に対する抵抗性を与える遺伝子だった可能性がある。一見無駄あるいは有害なものが過去のある環境の下では行きぬくために必須のものだったかもしれず、今は無駄でも再度同じ環境が襲った場合の安全装置なのかもしれない。
また生物も常に同一平面で激しく競争を続けているわけではない。ちっぽけなオオイヌノフグリは他の草が生えない早春に花をつけ、他の草の影になってしまう時期より前に種をつけてしまう。タイムシェアリングによって同じ地面を異なる種が争うことなく利用することも可能なのだ。すみわけによる環境の階層化と高度利用は不要な争いを避け、環境の安定性を増す仕組みでもある。これがエコロジーである。江戸時代に260年間対外的な戦争を行わず平和な社会を維持してきた日本はエコロジー先進国なのだが、これを言葉にして対外宣伝する努力に乏しかった。雑誌「Nature」がダーウィニズムの宣伝のためにつくられ、一面では帝国主義の精神的背景となったように(この主張を何かの証拠で裏付けるのは容易でないかも)日本の社会の持つ優れた点を科学哲学的にも裏付ける仕事があってもよい。例えば日本の老舗に伝わる「浮利を追わない」とか「相手の無知につけこんで暴利をむさぼらない」などの「商道」は長期的な相互関係を前提にした場合は合理的な行動であることがゲームとしての解釈でも裏付けられている。
しかし物事は一概にどっちがいいとも言い切れない。江戸時代の平和は身分制を通じた抑圧的な社会を代償とした。中世の十字軍は聖地奪回の大義名分の下で貴族の次男、3男にチャンスを与えるための対外侵略でもあった。