要領のよさは「愚鈍」に通じるのか?

内田樹さんのブログから

何年か前に浪速大学医学部からKCに移ってきたN田先生が浪速大学に「絶望」した理由としてこんな話をしてくれたことがある。
(中略)
学生からの質問の過半が「国試に出ますか?」で占められるようになったときにN田先生は医学部教育への情熱を失ってしまったそうである。
「国試に出ますか?」は「なにやっとけばいいですか?」と同一の問いである。
学ぶべきミニマムを訊いているのである。
国試に出ないことを勉強するのは(医師になったあとにその臨床例に遭遇したときのことさえ考えなければ)まったくの無駄だからである。
ここに働いているのは「計算」ではない。
「抑圧」である。
学生たちは「最小の学習努力で必要最低限の成果を挙げる」ためにはどうすべきかという計算だけを求められている。
どのような頭の使い方や身体の使い方をすれば自分の潜在的な心身の能力は爆発的に開花し、そのパフォーマンスは最高になり、アウトカムは最大化するか、というような問いのために、この計算能力は決して利用されることがない。
ある種類の計算のためにしか知性の行使が許されないという場合、それは「計算をしている」のではなく、「計算することを強いられている」のである。

そうはいうものの10年前と比べてさえ医学知識が爆発的に増えている現在では何が本質的で何がそうでないのかを見分けるのは困難ではある